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昨日初めて、ベリーちゃんと待望の合奏をしました。本物のマイクを持って「アイドルやる」と宣言して、色々口ずさんでいました。
私が基本ピアノで、ベリーちゃんがボーカル(?)です。 ビートルズの「ヘイ・ジュード」を演奏(私=ピアノ・ベース・ギター)しているとき、七割がたベリーちゃんはプリキュアを歌っていました(^^;)が、後半のダダダのところは、少し口ずさんでくれました(^^v)。
最近ますます風邪をひきやすくなったような気がする。京都滞在中(三月下旬)も風邪をひいた。そこで、備忘録的に最近の風邪の傾向と対策を少し。
三十ぐらいまでは、鼻風邪をひいて一日寝れば治る、みたいなパターンが多かったけれど、自分の最近の風邪は、 1.ワケもなく肩が凝る 2.ワケもなく胃腸が調子悪くなる(腹痛) 3.洟が出る 4.喉が痛くなる みたいなパターンになってきた。京都に居たときは、まさにこのパターン。 そこで、対策として主な原因をあげておくと、 ・疲れ ・ストレス ・寒さ(冷え) ・乾燥 が大きいだろうか。 京都に居たときは、ともかく寒かった。室内温度が、北海道より10度以上低い感じがした。それに、昼夜の寒暖差もある。だから、気象庁が発表する数値と、体感温度が全然違う。 今回は、京都に行く前に、ワケもなく肩が凝り、京都に着いた翌々日からおなかの調子が悪くなり、とうとう洟も出てきた。 しかし、風邪ひく頻度も増え、治るのも時間がかかるって、ここに備忘録記すだけでなくて、もうちょっと抜本的に考えないとなぁ。 p.s. 体調崩しているとき、サポートしてくれた皆様、ありがとうございました。
先日、プロ野球のピッチャーを無理矢理やらされる夢を見た。ファンたちの冷たい視線を感じながらの、やけにリアルな夢だ。
百キロ程度のストレートと、超スロー・カーブで、どうやってプロの打者を打ち取るか真剣に悩んだ。 昨年四〇肩で肩を壊して、テニス等で苦しんだのが、夢になって現れたのだろうか。 因に、今は右に引き続き、左肩が故障中。昨年九月、背中で両手をくっつけることができる位に回復したのに、今度は左肩か、、、
マイケル・サンデルの「白熱教室」に圧倒されて、ついつい日本の哲学学者の授業はつまらないみたいな事を以前書いてしまったけれど、私の不勉強だった。やはり日本の哲学者(全員じゃないだろうけど)も面白い。
失礼しました。>日本の哲学者の方々 最近読んだり見たりしたのは、河本英夫先生(学部時代にお世話になった)、東浩紀、木田元、国分功一郎、萱野稔人等々。その著作をもっと読んでみたい哲学者がたくさんいる。 今、梅原猛と東浩紀の対談(TV)を見ていて、ふと思い出した。 それにしても、春休み期間が終わりつつあるが、そういう期間位、原著で哲学の古典でも読んでみたいものである(ドイツ語は無理か)。何だかんだ言っているうちに、あっという間に日々が過ぎていく。
先の「ライトニング」誌に触発されて、初期のピーチボーイズのCD大量購入した。アマゾンで調べると、初期のアルバム(LP)が二枚合算される格好で、一枚のCDになっているみたい--すみませんが正確なところは不明--で、しかも一枚千円少々。そんなこんなで、いわゆる大人買い。
実は、クワヒロ・バラーナさんのブログ(まだ終わらんよ!)に触発されて、以前名盤の誉れ高き「ペット・サウンズ」を購入したのだけれど、正直なところピンとこないままでいた。その後、村上春樹が訳した「ペット・サウンズ」(フジーリ著、新潮文庫)も読んだけれど、まだそれほどハートに突き刺さるものがあまりない。もっとも、リアルタイムで「ペット・サウンズ」を経験した村上自身も、「サージェント・ペパーズ」などに比べ、最初はピンとこなかったらしいけれど(後で、その偉大さを実感するようになったとの事)。 うーん、今のところ、能天気にクルマやサーフィンや女の子の事を歌っている初期のヒット曲の方がいいなぁ。特に、この寒い北海道(個人的には「真逆の世界」、と言うと極端だけど)で、真夏の西海岸を夢想すると、心暖まるというか。
論文の締め切りがあったので久々の書き込み(アクセス)。
研究のためというか気晴らしのためというか、兎に角、今月の『Lightning』「ロックが教えてくれたこと。」を購入。興味を持ったのは、「ピースボーイズを聴くとホットロッドに乗りたくなる」という記事。これが意外と濃くて、なかなか面白い。 その記事によれば、ボーイズのウィルソン兄弟(ブライアンとデニス)は、比喩が的確がどうかわからないけれど、どうも日本の石原兄弟(慎太郎と裕次郎)みたいなものだったらしい。つまり、デニスがサーファーと女の子に明け暮れる不良で、兄のブライアンが半ば呆れ顔でそれを見ていたけれど、結局、初期のビーチボーイズは、周知のようにデニスのライフスタイルが、そのまんま看板になったようなものだったとか。裕次郎らの仲間、世に言う「太陽族」(湘南のお金持ちの不良ですね)を何だこいつらみたいな感じで見ていて、それを小説化したら大ヒットしてしまった慎太郎と、何かそっくりじゃないだろうか?(と思うのは私だけ?) それにしても、ホットロッドは兎も角として、ビーチボーイズが描いたようなライフスタイル(西海岸の小金のあるティーンエイジャーたちの)に先駆けて(?)、サーフィンよりもカネのかかるヨットに入れ込んでいた若者たちが(風俗として)50年代の日本に居たとは、意外と日本は復興していたのだなと、妙な感想を抱いてしまう。
先日おぎやはぎの「No Car No Life」を見ていたら池沢早人師が(高校生位の時?友人たちに対して)「こいつらクルマと女の話ばっかりじゃないか、けっ」とか思っていたそうだ。しかし、自分も含めてそういうヤツに限って、かえってカー・マニアになるような気がする。逆に、若い時に「クルマと女の話ばっかり」している輩は、家族ができたら、さっさとミニバンみたいなモノに乗ってるんじゃないのか。
村上春樹も、イタリアでランチア乗る前は、「クルマなんかなくなった方が良いのに」みたいなことをエッセイで書いていた。しかし、ランチア乗った後は、なんと、そのランチアをわざわざイタリアから輸送するほどの入れ込みようである。こんなこと、クルマと女の話ばっかりしている若者は、(30過ぎてからは)逆にしないよね。
数年前に顔面骨折という大ケガをしたり、昨年は東日本大地震があったり、また、ここ数年で親類縁者が予想以上に早く(何人かは「ふいに」と言う感じで)あの世に召されたりして、確率的にはそんなに高くはないけれど(少なくとも「ゼロ」ではない)、人間いつ死ぬかわからない、ということを実感させられた。
普通はそこで「危険を考えるなら、モータースポーツなんかするな」という方向に流れるのかもしれないが、私は逆に、「死ぬ前に、絶対やりたいことをやり抜く」という方向に進んだのだ。進んだ、と言っても、ジムカーナなんて、一般道走るよりずっと安全だけど。 それはともかく、モータースポーツ是が非でもやってたいなんて考えるようになった一つのきっかけは、『大人のクルマ遊び』というムックであった。この本のディレクション役であるHonkanは、冒頭のいのうえこーいちとの対談で、こんなふうに語っている。 「もしも明日地球が亡くなると言われたら、99%の人たちが今の生活とは違う事を始めるような気がするんです。(中略)私の場合、いつものようにクルマ関係の仕事をし、サーキットを走り、妻や家族と食事をする……。それで充分です。全く喰いはありません。」 確かに地震に備えて、懐中電灯や非常食を備えるなどのことは必要かもしれないが、上の発言のような事が、究極の(そして本当の)リスク・マネジメントだと思う。 伊坂幸太郎の小説に『週末のフール』というのがあるが、テーマ設定は、だいたい一緒だと思う(明日、ではなく一年後に滅びるだと記憶するが)。多くの人は、本当に、どうしてもやりたい事を、やり残していると思う。あるいは、やりたいことすら分かっていない人もけっこういる。 世間体やらしがらみやらを捨てて、どうしてもやりたい事を、生きている間にやるべきだ。やりたいことすら分かっていないような人間は、たとえ長生きしても不幸である。
今年から、ゼミでチクセントミハイの『フロー体験入門』を輪読テキストとして使っているのですが、意外な所(つまり本題とは一見無関係に見えるような)で、色々教えられる所の多い本です。チクセントミハイという学者は、社会心理学という枠組みには収まりきらない、とても器の大きい本物の学者ですね。
で、今回取り上げるのは、「またか」という感じでクルマ・ネタですが、レースというジャンルが古今東西、とまではいかないかもしれないけれど、かなり普遍的に楽しまれているという記述です。映画「ベンハー」の戦車レースのシーンはあまりに有名ですが、ビザンツ帝国が終わりに近づいている時のコンスタンチノープルでも、「大規模な戦車レースが都市で開催され」、一番のドライバーは「裕福で有名になり」、「自動的に元老院議員に選ばれた」そうです。西欧では、本当に昔からレーシング・ドライバーの地位が高いのかもしれません。「F1=貴族の遊び」という伝統は、ひょっとしたらベンハーの時代から、ビザンツ帝国の時代を経て、連綿と受け継がれているのかもしれません。 さて、現代では、北極に居るイヌイットたちの間にも、「アザラシを狩り、クマを罠にかける興奮」の代わりに、「ドラッグレースを唯一の目的として何マイルもの道路を建設したコミュニティーがある」そうです。チクセントミハイは、これらをローマ時代の「パンとサーカス」のような、品のない受け身の娯楽として、ややネガティブに扱っていますが、この点に関しては、私はもちろん反対です。 まず、チクセントミハイ自身が他の箇所で指摘している通り、クルマの運転は、比較的多くの人がフローを体験できます。ということは、たとえば(日常的にほとんど体験していないであろう)野球やサッカーと違って、多くの人が実感を伴った追体験が可能なことを示しています。 次に、Howellの『密造酒からマディソン・アベニューへ--NASCAR WinstonCupの文化史』などが示すように、あの単純なオーバル・コースをグルグル廻るだけの単純な競技に見える、あのNASCARを楽しむには、実は様々なデータを統合して観察するという積極的な参与が、実は必要らしいのです。私も、この本を読むまで、あの単純なコースを走るレースの面白さが正直なところイマイチ分かりませんでしたが、逆に単純だからこそ、積極的に観るということもあるようです。 ともあれ、チクセントミハイという大学者が、その意図とは別に、私たちに教えてくれたのは、レースが、かなり普遍的に人々に楽しまれ、そして人々の精神状態--アメリカ先住民のナバホ族は、かつての儀式での豊かな体験を奪われている--を支えているという事実でした。
先日「電気自動車は三度死ぬ」という記事を書いたとき、世間一般の予想は、電気自動車は次世代の自動車の大本命で、すぐにでも普及するというものである、ということを前提にしていましたが、「世間一般」というか専門家と言えるような人たちかもしれませんが、WBSを見ていたら、(アメリカで)年間百万台に達するのは、2035年位とする人たちが半分位いて少々意外な感じがしました。あ、これは例のオバマの2015年までに、電気自動車の生産台数を百万台にしようという計画というか目標について、デトロイト・モーターショーでのアンケート結果です。
あまり真剣に観ていなかったのでウロ覚え--アンケートと言ってもそんなに正式のものでもありませんし--ですが、2015年までに百万台突破すると答えていたのは、二、三割位でしょうか。もっと遅い2050年位(?)という予想も二、三割位あったように思います。 何が言いたいのかと言うと、電気自動車は確かに技術的に優れていますが、すぐれた技術が普及するとは限らない、ということです。これは、一部の経済学などで、よくタイプライターやビデオやOSなどで言われてきたことです。 さらに、私は基本的に創発学派に属していますので、技術はどのように利用されるのか予想し難いということを言いたいのです。だから、何年までに電気自動車はどの程度普及するか予測するのが私の主眼ではなく、優れていると思われる技術が単純に普及するとは限らないというのがポイントです。 ただ私の場合、たんに予測不可能性を言うのではなく、「遠乗りというジャンル」から、(これが解決されない限り)電気自動車の普及は、いくら政府が支援しても難しい、と言いたいのです。 More
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