![]() by evianetvian カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
ブックマーク
お気に入りブログ
ライフログ
検索
ファン
|
アルピーヌつながりということで、ルノー・トウィンゴRSのことを少し。
まず最初がゴルディーニ仕様(こちらはCUP仕様というのよりマイルドらしい)が格好良いというのでやられたけれど、ジムカーナをやる身としては、やはり気になるのは走りの実力。 トップ・ギアーでは、メイン司会者のジェレミーが、トウィンゴ特集のとき何度かサイドターンを決めていたけれど、かのラニョッティーも、トウィンゴRS(とクリオ)はサイドターンしやすいクルマだとTipo誌で語っていた。 MR2昨年購入したばかりで、あまり現実味はないかもしれないけれど、ルノー・トウィンゴRS、ちょっと気になる。このクラスの大本命は、マツダのデミオで、対抗馬の筆頭として、スズキの最近出たスイスポがあがるから、(そして自分の実力も加味すると)ちょっと形勢不利な気もするけれど、競技の結果よりも普段乗りのことなんか考えたりすると、将来的にだけれど、少しだけ可能性がなくもない。
先週、ドン小西が出ていた「おぎやはぎの愛車遍歴 No car, No life」の再放送を何気なく見ていたのだが、フェラーリF40のような、かなり高額なクルマに乗ったドン小西の憧れのクルマとして最後にアルピーヌA110が登場した。ドン小西という人、正直それほど好きでもなかった(本人がそれほど格好良くない--失礼!--のに、なんで他人のファッションにあんなにケチをつけるのか私には理解不能だったので)が、これで一気に高感度増した。
そもそも、私がアルピーヌA110というクルマを知ったのは、もう二十年位前だろうか。やはり何気なく点けた深夜の番組で、軽井沢に早々とリタイヤした(転職した?)初老の紳士--相当なコレクターであったように記憶する--が、小雪の降る中、アルピーヌA110を嬉々として走らせていたのが、とても印象的で、自分もいつかあんな風に成れたらなぁと漠然と感じたのが出会いであった。(というか、クルマのことは何も知らないような状態だったので、雪が降る景色とスポーツカーの取り合わせが、蝙蝠傘とミシン台位奇妙に感じたのであった) それから相当の年月が経って、自分もそれなりに年を食い、アメリカから帰国した後フィアット・バルケッタに偶然乗ることになり、突然(俄)カー・マニアになった。そんなこんなで、あれこれと雑誌の頁を捲るうち、アルピーヌA110というのは、WRCで大活躍したクルマであり、外見が格好良いというだけでなく、モータースポーツ史上に燦然と輝く偉大なクルマであることを知った。 軽量でRRから来るトラクションを武器に、峠道を疾走するアルピーヌA110。実質RRみたいなSW20(MR2)も雪の峠道をそんなふうに軽やかに疾走できるのではないか、とそんな妄想が膨らむ。 しかし、、、 近所の道をごく低速で走るだけで、派手なドリフト状態。真直ぐ走るつもりが、急にハンドルとられたり、なんてこともしばしば。 そんな感じで、年明けてから、SW20では、通勤路である張碓峠にすら行っていない状態。
先日の「強欲資本主義 vs. 贈与型資本主義」の続きである。
とりあえずの方策として、自慢や宣伝でも良いから、災害などに寄付をした企業や、ボランティア活動をしたアーティストなりを市民が応援する、というのは単純ながら効果的だと思う。あまりにも見え透いた宣伝というのは、どうせ淘汰されるので。 と思ったが、個人的には、あの神社などに寄贈者がこれでもかという感じで彫り込まれているのは、いかにも宣伝行為じみていて興ざめだなぁ。たとえば、伏見稲荷なんか行った時、寄付者だか何かの名前が一々出てくるの、神様がカネに圧迫されているような気にもなった。 が、しかし、富める者は、恵まれない人たちに、もうちょっと何かしたら良いと思う。特に戦後の日本の金持ちは、そういう余裕感じないなぁ。 シリコンバレー的な、プラス・サム・ゲーム的な経済っていうのは、今はまだそうそう成り立たないと思うので、とりあえず単純に、まず金持ちは寄付しろと、そういう話。
MR2を昨年購入したとき、周囲から意外だと言われた。自分でもちょっと意外だった。
でも、アマチュアの競技車両として、たとえばシビック=EK9なんかと自分なりに比較してみると、MR2を選んだことが腑に落ちる。(という言い方も、自分のことなので変だけれど) 第一は、やはりMR2の方がシビックやインテグラのようなFFより、ドライビング・テクニックを磨けて良いと思った。タイム的には、今までFFに乗っていたり、モータースポーツのことよく理解していなかったりして、FF車に乗った方が良いのだろうが、やはりもっと先のことを見据えると、「難しい」と言われるMR2に乗っておいて、はっきりとダメ出ししてもらった方が有り難い。何と言うか、星飛雄馬にとっての大リーグ養成ギブス的なものだろうか? まぁ、単純にミッドシップへの憧れというのもある。何か「ミッドシップ」というだけで、他のクルマより格上のような、錯覚というか誤解みたいなものを正直抱いていた。いざ競技を低レベルながらやってみると、メリットというよりはデメリットの方が多いような気がするのだが、少なくとも、ミッドシップ車のデザインはやはり格好良い。 あとこれは最近になって実感してきたのだが、ホンダに対するガッカリ感と、トヨタ(社長)に対するエール的なものが多分にあったのかなぁという気がする。最近ははっきりとそれを感じるが、昨年ぐらいから漠然と、そんな感じを持っていたような気もする。 どうも、この「ホンダに対するガッカリ感と、トヨタ(社長)に対するエール的なもの」は、モーター・ジャーナリストの間でもあるようで、徳大寺有恒や河口まなぶも似たようなことを書いていた。 しかし、イタフラ車といい、MR2といい、結局世間的に「変なクルマ」という点では変わりないかも、、、
1/15、晴れとの予報が出たので、千歳モーターランドのスノー走行会予約入れていってみた。多分夏場はダートラのコースだったところを圧接して冬用に使用しているのだと思う。
昼過ぎ行ってみると、地図で見たイメージより大分距離を感じた。帰りはさほど遠いと感じなかったので、慣れの問題かもしれないが、行きは不安になりながら、エンエン人気のない道を走った。着いてみると、物凄い盛況で、ぱっと見、30-40台位来ていて、コースの前が行列になっていた。 さて、コースはスタッドレス用とスパイク兼用の二コースに分かれていたのだが、空いていて単純な前者の方だけ午後一時から三時まで何回も走った。(残念ながら午後零時から一時まで昼休みだった)最初はそれなりに走りやすかったが、皆走るうちだんだん磨かれてきて最後の方は普通に走るのもままならずいとも簡単にスピンを繰り返してしまった。 一回は調子に乗ってアクセル踏み過ぎたせいで、スピンして後からツッコミ、自力で脱出できず、ショベルカーの救援をあおぐ羽目になった。最後の走行は、MR2に興味を持ったラリー畑の人が同乗したのだが、普通に走っていたつもりがあえなく二回もスピン。全く恥ずかしい。 そう言えば、ジムカーナ畑の人も何人か来ていたみたいだが、やはりラリーやダートラ畑の人が多そうだった。 もう一度行くかと聞かれたらちょっと迷う。やはり、ふだん雪道をゆっくり走ることすら大変なMR2で、スノー走行会も何もないだろうという気もしてきた。ま、一度はモノは試しということで。
娘のために絵本を読んであげていると、改めて「強欲な者は罰せられる」というテーマが多いのに気づく。エンロンからリーマンショックに至るまで、おそらく(まだ調べていないが)「強欲な者は罰せられず」そのまま温々とそれまで蓄えた資財を元に暮らしているのだろう。
これでは、確かにウォール・ストリートでデモが起こっても不思議はない。 さて一方、ウォール・ストリートに対してシリコンバレーを美化する訳ではないが、後者では、「贈与型資本主義」とでも言うべきものが、それなりにある。まずベンチャーに無担保で投資するエンジェルという存在だ。ベンチャー成功の大きな基準は、株式上場することだが、そこまで投資先がいくのは目利きのエンジェルでさえ、一割に満たないと言う。もちろん、ほんの数%上場までこぎ着ければ充分元が取れるという合理性はあるのだろうが、庶民的な常識感覚から言うと、やはり気前が良い。九割以上失敗する(上場までは行かない)と分かっていながら、大金をポンと渡すのだから。 また、リナックスのように、無償で配布するソフトウェァのようなものもある。作者であるライナス・トーバルス自身は、それを売って儲けている訳ではない。こういう人たちがシリコンバレーにはたくさん居て、技術の蓄積ができる。 そして、ある意味単純な贈与の形態かもしれないが、ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグのように、自分の資産を公共団体に(死後)受け渡すと宣言している人たちも居る。特にザッカーバーグは、「贈与型経済」というものに拘っている感がある。スティーブ・ジョブズも、長い間一ドルでCEOをやっていたし、日本のテレビ番組で起業家に向けて「金銭目的でない起業」を呼びかけていた。 もちろん、資本主義である以上、パイを奪い合うような競争はある程度避けられないだろうが、もう少し世の中で、シリコンバレーの一部に見られるような「贈与型資本主義」みたいなものがないと、かえって世界が回らなくなる。
今年を振り返ってみると、悲しいこと、楽しいことがたくさんあった一年だった。前者は身内の不幸や大災害、後者は娘が元気でいることやモータースポーツをできたことなどなど。
これを読んでいる皆さんにも良いことがありますように。
アルファロメオとカエル男の北海道ライフの意味でブログの副題を、2010年12月29日に変えました。
毒蛇は、もちろんアルファロメオのことです。この通称「ブレラ顔」って、なんだか睨みつけている感じがします。 カエル男は、中学時代の自分のあだ名からとりました(中学時代は、もちろんこんなあだ名は嫌でしたが、最近はカエル顔流行っているそうですね。これは女の場合?)。あと、村上春樹の「かえる君、世界を救う」も多少意識しています。 ![]() ※写真は、販売元のフラミンゴさんのもの。
先日、桐野夏生『メタボラ』(上下巻)を購入し、一気呵成に読んだ。すこーく紋切り型に言うと、「現在の下流社会の…」とか「若者たちの…」とか、そういう言葉で、この作品は語られるのだろうが、そういう鋳型に嵌めてまうにはあまりにもったいない。
桐野作品の多くが、現代日本の過酷の状況の中でサバイバルする様が骨格になっていると思う。それは、ミロ・シリーズの女探偵が主人公であっても、舞台が上流であっても(『グロテスク』)、下流であっても(『OUT』)、無人島であっても(『東京島』)、共通するものがある。 そんなわけで、主人公とは、少なくとも見かけ上共通点のあまりない私もかなり作品に没入して読み進めていった。 筋をあまり言うとネタバレになってしまうが、記憶をなくした二十代の若い男性が、無一文からサバイバルしていく過程で、徐々に記憶を取り戻し、驚愕の事実に直面するといったストーリーである。その浮かび上がった過去とは、主人公が家庭崩壊の中で大学を中退せざるをえず、フリーターとなるが、工場の過酷な労働等(ここは少しぼかしておきます)に耐えきれず、沖縄に向かった、というものだ。 この辺が桐野夏生の巧い所かもしれないが、私もたまたま上手くレールに乗っただけで、ひょっとしたら主人公のような人生を辿ったかもしれない、とふと考えてしまう。それと、上で書いたように、私は無一文で記憶をなくして生活したことはないが、現在をサバイバルするという意味では共通している。 そう言えば一昨年、自転車で転倒した時、ほんの数分間に過ぎないけれど、その時の記憶をなくした。これは、全く奇妙な体験である。それまでの自分が自分でなくなってしまったような、変な感覚がする。私の場合、左頬の箇所を骨折し、顔が微妙に変わったのも関係しているかもしれない。 もちろん『メタボラ』の主人公の設定から見れば、あまりに些細なことなのだが、それでも主人公に感情移入できる。 本筋に関係ないようにも見える、フラフラしている若者たちを上手く利用している(活用している)オヤジたちの描き方も巧い。「いるいる、こういうヤツ」と思ってしまう。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||