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年明けに『カラマーゾフの兄弟』(1-5)を読了した。
何割か仕事(バフチンという理論家の勉強のため)、何割かはプライベートの読書のつもりで読んでいたが、なかなか面白い小説だった。現在日本で人気なのも頷ける内容である。 しかし、ポリフォニー(要するに多元的な視点から小説を描く事)は、一読者の立場からすると、一長一短だなと思う。 私などは、ドストエフスキーの小説に慣れていないせいか、「この語り手はいったい誰なんだよ」と突っ込みを入れたくなる事が何度かあった。なんか透明人間として、カラマーゾフ家の周りにいつも居る人のような立場である。それまでの古典的小説と違って、神様の視点から、言い換えれば完全に客観的に描かれているわけではない。 というわけで、良い面としては、登場人物の、あるいは物事の善悪がくっきり別れているわけでなく、色々な視点から描かれているために、読者の想像力を促し、また、登場人物に感情移入しやすくなる。 たとえば、単純な娯楽小説的な描き方であれば、アリョーシャ(三男坊)=善、フョードル(父)=悪、となりそうであるが、必ずしもそうなってはいない。私などは、第一巻の途中で、アリョーシャが犯人ではないかと疑ったほどだ。 アリョーシャの危うさに関しては、亀山育夫の第五巻における解説が優れていると思う。他の解説は、アリョーシャ=善的な割り切りが多いと思うので。
by evianetvian
| 2009-01-24 18:48
| 読書
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